多分、出版が難しかった本。ドイツではナチス、ヒトラーの再評価につながる言論は規制されている。この本は、うかっとすると、そういう本だ、という評価を受けてもおかしくない。実際にはそうではないからこそ、大手をふって売られているのだと思うけど。

Er ist wieder da, Timur Vermes, Eichborn Verlag

[2014年1月25日追記:日本語訳が出た。「帰ってきたヒトラー」]

ヒトラーが、現代のベルリンに突然、たった一人で出現。本人も戸惑う中、周囲の人たちの幸運な誤解によって、コメディアンとしてテレビに出演し、人気を博す。Bild (日本の写真週刊誌みたいなゴシップ紙)のインタビュアーとの対決や、NPD (現代ドイツの極右政党)本部へのアポなし訪問、ミュンヘンのオクトーバーフェスト視察などの出来事が、一人称で語られる。

「彼」の語り口は、古風なドイツ語や、ナチス独自の用語が散りばめられていて、今のドイツ人が見ると、相当にそれらしく見えるらしい。Die Zeit の書評が、「衝撃的なまでに納得感あり erschütternd plausibel 」と書いたとか。これは文体だけじゃなくて、論法とか発想、思想までを含めてが、彼ならこう言いそうだ、と信じられる、ということなんだと思う。

で、この冬よく売れている様子。どこの本屋でも目立つところに置いてある。表紙がご覧の通りシンプルなものなんだけど、一目で分かるインパクトがある。割合厚みがある、かさ張る本だけど、テキストの量は多くない。

Kindle 版を買って、iPad用の Kindle アプリで読みました。アプリの中から呼び出せるドイツ語辞書がとても便利。

この本から受ける、「彼」の印象は、人間臭くて、魅力的。他人の虚飾やエゴに厳しく、私腹は肥やさず酒も飲まずベジタリアンで、そういう意味ではストイック。セコイことは考えず、何でも気宇壮大な見地から語るので、大人物な印象があり、彼が現代の実在の人物をやり込めたり煙に巻いたりするシーンがあると、痛快だったりする。結構彼に感情移入するように書かれている。

その一方で、彼はホロコーストや外国人差別やSSの所業に一点の疑いも持っておらず、それを淀みなく正当化する。彼の現代におけるお気に入りの秘書、 Krömeier 嬢が、彼女の祖母と、彼のことで大げんかする話がある。彼女の祖母は、家族6人をガス室で殺されていて、彼のことをコメディアンとしても許せない。Krömeier 嬢は尊敬する上司と大好きな祖母の板挟みになって、涙ながらに彼に訴える。一度でいいから「彼」としての演技をやめて、ユダヤ人虐殺はひどい出来事だったと認めて欲しい、と。彼は「この次は処分に人違いが生じないようにする」と言って、 Krömeier 嬢を逆上させる。「誰かを殺すと決めなければ、間違って殺される人も出ないんですよ!」と。

まぁ、ここはこの話の中でも一番重いシーンで、全般には皮肉な調子の軽い読み物になってる。

翻訳が出ないかな。過去と現代の両方のドイツの政治情勢に関する詳しい解説付きで。あと、映画化も見てみたい。ないだろうけど。

その他雑感。

彼のドイツ語には、副詞的に使われる2格(letzten Endes)とか、しっかり語尾のついた3格とかが出てくる。Volksgenosse (民族同胞諸君)なんてナチス用語も出てくる。あと、蔑み言葉が豊富。辞書にも載ってないようなのもあるけど、文脈もさることながら、単語の形と音で、蔑み言葉とわかるようになってる。日本語でいうと、「……風情」とか「……共」とか「……ごとき」「……の分際」という感じ。

Krömeier 嬢は、ゴスファッションに身を包んだベルリン子で、ベルリン方言で喋る。das や dass が両方とも det になり、alles が allet になり、ganz が janz 、gibt es が jibt et 、auch が ooch 、mein Führer が meen Führa になる。首都方言なのに、何だかとても田舎臭い。