中世の覚醒
とても読み応えがあって満足感高い本。古代ギリシャの哲学者アリストテレスの思想が、千年以上の時を経て、中世ヨーロッパで再発見された時に何が起きてどんなインパクトがあったのか、に関する話。
中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ リチャード・E・ルーベンスタイン
登場人物の数が多く、それぞれの生涯が色んなエピソードを通じて描かれている。その辺がお買い得感がある理由なんだけど、それはさておき。
一番面白くて印象に残ったのは、当時行われていた論争の論点が書いてあること。しかも、なぜそれが論点になったのかが分かるように書いてあるのが嬉しい。
今まで読んだ本は、煎じつめると、神学論争は「こーんなくだらないことを論じていたんですよー。馬鹿ですねー」という印象が残るように書かれたものが多かったんだが、この本はそうじゃない。当時の論点の、当時なりの必然性が分かるように書いてある。
じゃ、どんな論点があったのか。
例えば、世界の永続性。世界無始説。アリストテレスによれば、全ての物事に原因がある。原因なしに物事は起きない。なので、理性のみからでは、ある日世界が出現した、とは考えられず、世界の始まりはないことになる。
当時の神学者達は、信仰を否定するつもりはなかったので、理性が告げる永続性と神による創造の折り合いをつけようとした。それで、次のような説が出てきた。
二種の原因。宇宙は神によって作られた後は、独自の原理によって動く。宇宙が今あるように動く第一の原因は神による創造だけど、作った後そういう風に動いているのは、独自の原理、すなわち第二の原因による。
これなんか、理性に照らしても、肯定も否定もできず、そう考えたいんならどうぞ、って感じで、理性と信仰の折り合いの付け方としては、なかなか上手いこと考えたな、と思います。実際、こう論じたトマス・アクィナスはやがて聖人とされて、カトリックの公式見解にもなる。
しかし、最初は保守的な信仰の側からは批判されたのですよ。それは何故か。
この考え方だと、世界創造以降は神の出番がほとんどなくなってしまうから。保守派の見解では、世界は神が不断に介入するプロセスであり、それ自身の不変の法則によって動くものではない。そう考えないと、神の絶対的自由も、奇跡も、キリストの出現も、終末の日も、人間の自由意思さえも、全部否定してしまうことになる。
いや、否定すればいいじゃん、と言うのは今の考え方で、当時は、信仰と理性を調和させたい、というのがみんなの願いだったから、論議を呼んでしまうし、トマス自身も、信仰を否定するつもりは全くない、というのがこの時代の面白いところ。
理性で分かることは理性で、信仰のことは信仰で、という、スタンスは、当時もあった。パリ大学の学芸学部にいた、ブラバンのシゲルスという先生は、「うちは学芸学部なんで、アリストテレス教えてますが、神学に口を出すつもりはありまへん」と常々言ってたそうですが、批判する側は余計いきり立ったそうです。
批判した人々は、シゲルスの主張は二重真理説である、論理矛盾を生み、人々に信仰と理性のいずれかを選択するよう迫るものだ、と批判しました。ごもっとも。
もう一つ、例を挙げると、知性単一説ってのがあります。これもシゲルス先生の主張で、個人が死んだのち、その人物に属していた知性は、ただ一つの「(人類という)種に属する知性」の一部として、永遠に生き続ける、というものです。はあっ?という感じですが、こんなことを言い出したのにはやっぱりそれなりに訳がある。
当時も、そこから千年以上遡るアリストテレスの頃も、霊魂があること、霊魂が、肉体が滅んだのちも存在し続けること、は当たり前の事だったらしい。信仰の問題ですらなく、理性に照らして、そうとしか考えられない類のことだったそうな。
アリストテレスは、霊魂論(デ・アニマ)という本を書いてます。アニマってのが霊魂なわけですが、これは、生きている人の身体的、精神的能力の全てを指す言葉だそうで、だとすると、この本は今なら医学・生理学に当たる。で、一部の能力は肉体に強く依存するので、肉体の死後は存続できないが、合理的霊魂、すなわち知性、は肉体の死後も生き続ける、というのがアリストテレスの、および中世神学者たちの確信だったそうです。
ただ、肉体が滅んでるのに、霊魂だけが残る、というのにはやっぱり何か居心地の悪さがあったらしく、そこを言い訳するために知性単一説なんてことをつい言ってしまった様子。そこに「アホかーっ」と突っ込んだのはトマス・アクィナス。
トマスは、こう言って反駁します。鋳型に流し込まれた金属が、鋳型を壊しても形を保つように、人間の肉体と合一した霊魂は、死後も個別性を永遠に保ち続ける。これを聞いて、シゲルスは自説を引っ込めたそうです。
ところが、別の方向からトマスに批判が。要は、トマスの説は、肉体の役割を重く見すぎている、と。保守的なキリスト教の見解では、肉体は不完全なもので、人が罪を犯す原因となり、霊魂と肉体は闘っている。肉体は人間の本性の重要な部分ではない。トマスの説は、霊魂には肉体の型がきっちり跡を残すので、霊魂は肉体に負けてしまっているとも言える。だからだめだ、と。
トマスはこの批判には反駁しないうちに亡くなってしまいました。信仰を守るために口を開いたのに、信仰を損なう考えである、と非難されて、やんなっちゃったのかもしれない。
とにかく、この時代には、まだ誰も信仰を捨てて理性に付く、ということは考えていない。信仰も理性も両方矛盾なく生かしたい、というのが、どの論争においても、全ての陣営の考え方である。
トマス他の当時最高の学者が、何とか良さげな説を立てるたびに、「いや、それだと神は段々いらなくなっちゃうから。人々が信仰を捨ててしまうから。霊魂より肉体が偉いことになっちゃうから。」と、保守派がツッコミを入れていた、というのが、当時の風景で、そして、時代はやがて、保守派が懸念した通りに変わってしまいました。
つまり、保守派の予測は正しかった。彼らが間違っていたのは、社会における信仰の役割が小さくてはならない、という前提においてだったと。
いろいろ似た話が現代にもありそう…